「対話による創造的問題解決の手法、
多様化と複雑化の時代に求められる言語力」
日本教育大学院大学客員教授・フィンランド教材作家 北川達夫氏
かつて外交官として北欧・バルト諸国で活動していた頃、あらゆる言語・価値観・宗教を持つ人々と接しながら、
気がついたことがあります。海外にいると嫌と言うほど思い知らされることです。1つ目は、
「言葉で言わなくては分からない」ということ。言葉には限界がありますから、すべてを言い尽くすことは
不可能ですし、言ったからといって絶対に理解してくれるという保証はありません。しかし、言わなければ絶対に
通じないのです。実際のところ、私たちは、「いちいち言わないでも分かってくれるだろう」という意識的・無意識的な
期待を持ちながら話していることがとても多いのです。しかしお互いの背景を知らない外国人同士が話す際、当然ですが
「分かってくれる」ということはありえません。
2つ目は「理解できないことも、まずは受け止めるしかない」ということ。相手によっては、
自分が一生かかっても経験できないことを日常的に経験しているツワモノであることもあります。
とんでもないことを言ってきたとしても、何か理由があって言っているのだろうから、とりあえずは受け止めるしか
ないのです。とはいえ、人間の理解というのは、自分の知識や経験の枠に閉じ込められていますから、
受け止めたところで必ずしも理解できるわけではありません。それでもなお、相手と言葉で繋がっていくためには、
その言い分に耳を傾けるしかないのです。そうすることによって、「自分は絶対にそうは思わないが、相手の言うことも
もっともだ」と、相手の考えに歩みよることができる。不思議なことに、こちらが歩み寄ると、相手も歩み寄ってくるものです。
この2つから言えるのは、言葉の限界や理解の限界を承知の上で、ひたすら言葉の力を信じて表現することが、
コミュニケーションの真髄であるということです。これはグローバル・コミュニケーションに限ったことではなく、
人と接するすべての状況において基本と言えるのではないでしょうか。
さて、現在の私は、外務省は退職し、教育の仕事に携わっています。その教育の世界でもグローバル化が
進んでいます。世界経済がグローバル化するなかで、当然労働市場もグローバル化が進んでおり、
労働市場に供給される人材にも国際基準の能力が求められるようになりました。OECD(経済協力開発機構)が
その国際基準としての能力を定義し、各国はそれに従って自国の教育を見直すことを求められたのです。
また、OECDは国際基準としての能力を測定するテストとして、みなさんもきっとご存じのことと思いますが、
PISA調査を実施しました。
PISA調査とは、世界中の15才の子どもにテストを受けさせて、学力比較などさまざまな指標を出すものですが、
その結果が発表されたとき、「日本の子どもの学力が低下している」ということで話題になりました。
同時に、最も成績が良かったフィンランドの教育にスポットが当たるようになりました。
ただし、ここでいう「学力」とは、みなさんが小中学校で培った学力とは、まったく異なる観点から
測定されています。それは「国際基準の人材としての能力」という観点で測定されているのです。
今日の世界は急速に変化していますから、問題が発生しても前例に従って解決することは難しく、
また問題自体も複雑化しているために、とてもひとりでは太刀打ちできません。ですから、単独で
問題解決できるよりも、集団で問題解決できるほうが重要。また、知識や経験をひとりでためこむよりも、
変化に応じて必要な知識を取得し、自分の知識や経験と関連付けて活用できる能力のほうが重要になったのです。
これを「創造的問題解決」といいます。創造的問題解決が効果的に機能するかどうかは、集団の多様な
知識や経験を総動員し、多様な価値観に基づく他面的な検証をできるかどうかにかかっています。このように
多様性を前提とすると、まず問題になるのは、知識や経験や容易に矛盾するということ。「正しいこと」が
人によって異なるのです。また、価値観が異なると、人によって「大切なこと」が異なるということ。
このように、人によって「正しいこと」「大切なこと」が異なるとき、みんなで歩み寄りながら、
自分たちみんなにとって「正しいこと」と「大切なこと」を見いだしていくプロセスこそが、本日の講演の
テーマである「対話」です。先ほどのPISAという国際テストにしても、対話的な発想のもとで、自分なりの
「解」を見出せるかどうかが求められているのです。それはすなわち、いま教育の現場でも、対話によって
「解」を導く力を育むことが求められているということです。
価値観が異なる相手と対話する場合、相手が「何をいちばん大切に考えているか」を冷静に
分析することが必要です。たとえば紛争地帯において和平交渉を行なうとき、現実に戦争を遂行している
人々であっても、「平和」という価値は大切に考えていることが多い。しかし、生まれたときから
戦い続けた人々の中には、「平和」という価値自体を知らない人もいます。こうなると、和平交渉は困難を
極めることでしょう。しかし、そういう人たちも存在することを知らなければなりません。価値観が違う
ということは、時には絶望的な隔たりを意味するのです。
価値観の異なる相手の考えすべてを納得して受け入れる必要はありません。しかし、
「私は絶対にそうは思わないが、あなたがそう考えるのももっともだ」というように、相手の考えの
正統性を認めることができれば、お互いの考えをすりあわせながら合意形成に向かうことができます。
とはいえ、私たちは、自分とは異質なものに出会ったとき、本能的に不愉快さや腹立たしさを感じるものです。
ですから、常に「感情を留保する」ことが求められます。そのためには、自分と相手を俯瞰して眺める
メタ的な(高次の)視点が必要になります。先ほどのPISAという国際テストには、メタ的な視点を
持てるかどうかを問う問題も含まれています。
PISAには、過去にこのような問題がありました。A:「学校の壁に落書きがあり、なぜこのように
公共のものを汚すのか理解できない」、B:「落書きも一種のコミュニケーションだし、
人の好みはさまざまだ」 という2つの意見を示し、まず論点を問う。論点は「落書き」ですね。
次にAかBのどちらかを支持する意見を書かせる。これはディベートに似た問題ですね。
さらに、どちらを支持するかは別として、AとBの二つの意見のうち、どちらのほうが説得力のある
意見であるのかを評価させる。ここでメタ的な視点が求められるわけです。
メタ的な視点というのは、往々にして「みんな正しい」という相対主義に陥りやすい。
日本人は特にその傾向が強いようです。みんなの意見を聞きすぎて、「誰が何と言おうと自分はこうする」
という行動原理、つまりプリンシプルが失われがちなのです。こうなってしまうと、リーダー的思考が
できなくなってしまう。日本人にはそれが欠けているために、グローバル・リーダーにはなれないという指摘もあります。
しかし、私はしっかりとしたプリンシプルを持ちながら、それでもなお日本人的にメタ的な視点を持つことも
可能だと考えています。たとえば、国連の事務次長として、数々の国際紛争を仲裁されてきた明石康さん。
明石さんは、欧米の「強力でグローバル・リーダー的な仲裁者」とは異なり、決して「自分が絶対に正しい」
という姿勢はとらなかったといいます。その姿勢が高く評価され、多くの国際紛争において紛争当事者たちから
「明石さんに仲裁者になってほしい」との声が上がったといいます。欧米人の中には明石さんのことを
「弱腰だ」と批判する人もいます。たしかに欧米的なグローバル・リーダー像からするとそうかもしれません。
しかし、その欧米的な価値観からしても、私は偉大なサブリーダーといえるのではないかと考えています。
これから日本人がどのようにしていくべきか、アプローチは多々あり、確定的な正解はありません。
とはいえ、まずは世界がどのように動いているのか、どのような国際基準が設定するのかを認識する
必要はあるでしょう。そのうえで日本人として進むべき道を、それこそ対話的な発想で見つけていけば
よいのだと思います。ぜひ自信を持って取り組んでください。
【北川達夫氏プロフィール】
1966年東京生まれ。高校生の時に儒家の拝師門徒となる。古式にのっとり、四書五経を六年かけて学ぶ。
その間、北京・上海・台北などを巡る。早稲田大学法学部卒業後、外務省入省。
ヘルシンキ大学歴史言語学部に学び、フィンランド専門官として養成される。
在フィンランド日本国大使館在勤(1991~98年)。在エストニア日本国大使館兼勤。
帰朝後に退官したのち、英・フランス・中国・フィンランド・スウェーデン・エストニア語の
通訳・翻訳家として活動しつつ、フィンランドで母語科の教科教育法と教材作法を学ぶ。
国際的な教材作家として日本とフィンランドをはじめ、旧中欧・東欧圏の教科書・教材制作に携わるとともに、
日本では全国各地の学校を巡り、グローバルスタンダードの言語教育を指導している。財団法人 文字・活字文化推進機構調査研究委員。
著書に『知的英語の習得術』(学習研究社)、『「論理力」がカンタンに身につく本』(大和出版)、
『図解フィンランド・メソッド入門』(経済界)、『知的英語センスが身につく名文音読』(学習研究社 )、
編訳書に、 『フィンランド国語教科書小学3年生・小学4年生・小学5年生』
*シリーズで順次刊行中(経済界 2005~2007)など。 近著は、劇作家の平田オリザ氏との対談をまとめた
『日本には対話がない』(三省堂)。