「熱意で拓いた技術者としてのキャリア」
IBM フェロー
IBM東京基礎研究所アクセシビリティ・リサーチ担当 浅川智恵子氏
私は日本IBM入社以来、情報アクセシビリティ技術の研究に取り組んでいます。アクセシビリティを日本語で訳しますと「使いやすさ」という言葉になりますが、情報アクセシビリティ技術とは、障がい者や高齢者を含むすべての人がデジタル・ライフのメリットを同様に享受できるようにするための技術のことです。
IBMは、アクセシビリティ技術の研究において非常に長い歴史があります。まず1960年代の「トーキング・タイプライター」という英文専用タイプライターの開発に始まり、70年代には点字プリンターを開発しています。そして、80年代のパソコンの普及とともに音声読み上げシステムの研究・開発も始まり、私はちょうどこの頃に入社しました。
さて、私自身の話をさせていただきますと、私は14才の時に、プールでのケガが原因で失明しました。その頃の私は、運動が好きで得意だったので、将来はオリンピック選手か体育学部に進んで体育教師になろうという夢を持っていました。失明によってその夢はあきらめざるを得なかったわけですが、その時から、これから自分はどうやって生きていくのかということは常に考え続けていました。
盲学校から大学の英文科へ進み、さらに職業訓練学校でコンピュータを学び、その後、研修生として日本IBMに入り今日に至るわけです。
85年以降、IBMで研究者生活を始めて感じたのは、経験者にしか分からないアクセシビリティの必要性があるということでした。自分の苦労した経験や困ったこと、そこで養われた感覚を、アクセシビリティという研究分野に携わることにより活かすことができました。これは、私の「ハンディキャップ」が研究の糧、さらに言えば「ダイバーシティ」へと変わった瞬間でした。他者との差異を強みとして活かすことができるようになった、ある意味昇華されたからこそ、苦労の記憶というものが私のなかに残っていないのかもしれません。
パーソナル・コンピュータの可能性というものを実感したのもIBM入社後でした。入社後すぐに点訳システムの開発に携わり、点訳作業の手間を軽減させることに成功しました。図書館やボランティアの方々に現在も使っていただいている点字情報ネットワーク・システム「ないーぶネット」の基礎となるシステムです。点字は、ボランティアの人が1文字1文字ずつ点字器を使って打つため、膨大な時間がかかっていましたから、この点訳ソフトの登場によって点字の本の数が飛躍的に増えることになりました。
また、「ないーぶネット」は、視覚障がい者が在宅で点字データを利用できるため、これは、私自身にとってもとてもうれしいことでした。
このような障がい者の生活環境を改善するための技術だけでなく、ボランティアの方々のネットワークを広げたのもパソコン、そしてインターネットです。インターネット時代の到来と共に"ワールド・イズ・フラット"、つまり日本にいても世界の情報をリアルタイムで入手できる、グローバル化が急速に進むことになります。
私の研究者としての前半の大仕事はこの点訳ソフトの開発と点字システムの普及でしたが、その後は一貫してインターネットに焦点をあてて研究をしています。その最初のきっかけは、Webページを視覚障がい者の新しい情報源にしたいと思ったことでした。そこで、Webページの文字を音声で読み上げる「IBM ホームページ・リーダー」を開発し、視覚障がい者が簡単にWebにアクセスできる環境作りを実現しました。日本で97年に開発し、その後11カ国語に対応、現在その技術は世界中に普及しています。
97年のあたりまでは、日本のユーザーを対象とした研究を行っていたため、忙しい中にも静かな時間が流れ、自分らしく生活していました。その後、対象が世界へと広がり、まだ幼かった娘と十分に一緒に過ごす時間を作ることも困難なほど、忙しい研究生活に身を置くようになりました。
更に、2001年から3年間、博士号取得のため東京大学大学院に通い始め、仕事と家事と勉強の3つを両立させるという生活を送っていました。正直、なぜこんなに大変なことをはじめてしまったのか、と後悔もしましたが、このチャレンジに挑み、やりぬき、達成したことは、その後の私の自信につながりました。また、博士号取得は、私のキャリアに変化をもたらしたように思います。
その後、インターネットのブロードバンド化、マルチメディア化が進んだことで、「ホームページ・リーダー」では取り扱いが困難なWebページが増えてきました。Web上のマルチメディア・コンテンツへのアクセス困難な状況の改善について研究し、動画やアニメーションといったコンテンツへのアクセスを可能にする「aiBrowser」という音声ブラウザを開発しました。これらのツールは、すべてオープンソースとして無償で公開しました。たくさんの方に使っていただき、一緒にさらに良いものにしていきたいと考えたからです。
次に取り組んだのは、「ソーシャル・アクセシビリティー・プロジェクト」という研究プロジェクトです。さまざまな人々が協力することでWebのアクセシビリティを向上できるのではないかという考えに至ったことがきっかけとなりました。視覚障がい者が「ホームページ・リーダー」を使ってWebページにアクセスしたところ、画像があるようだが何の画像かわからない、という問題点を発見したとします。ソーシャル・ネットワークの仕組みを活用し、その修正をリクエストとしてSNSのページに送信すると、そのサービスにあらかじめ登録している世界中のボランティアのブラウザに情報が自動的に送られ、誰かがリクエストに応え、修正を施すことができます。
これは、私が子育てや女性エンジニアのネットワークに参加したことなども、その発想に影響をしています。ネットワークをむすび、助け合い、協働する仕組みが実現できる時代が今まさにやって来ている、と実感しました。
今後、障がい者だけでなく、外国人や高齢者、パソコンが苦手と感じている方々、新興国の非識字者などさまざまな困難をもったユーザーの情報化社会参加を支援する技術を研究していきたいと思っています。
世界の"情報弱者"は10億人以上と言われています。このような人々の暮らしが一変するような技術を開発し、すべての人がITを用いることで自分の能力を活かすことができる世の中にしたい、これが私の目指している最終ゴールです。
【浅川智恵子氏プロフィール】
1985年、日本アイ・ビー・エム(株)東京基礎研究所に入社。
2004年、東京大学工学系研究科先端学際工学専攻 博士課程修了。
1997年、IBM ホームページリーダー開発。
2004年、Web Accessibility の評価ツールである aDesigner(エーデザイナー)開発。
現在、障がい者と一般のボランティアが協力してWeb Accessibilityを改善する新しいサービス「Social Accessibility」 プロジェクトを進行中。
The Women in Technology International殿堂入り、日本女性科学者の会 功労賞、
日経BP社「日本イノベーター大賞」優秀賞などを受賞。